多賀大社(たが たいしゃ)      Tagataisha Shrine       25.Nov.2015        天空仙人の神社仏閣めぐり

多賀大社 Official Page
多賀大社
「多賀大社」

多賀大社
「多賀大社」

多賀大社 そり橋(太鼓) 写真 多賀大社 御神門 写真
「そり橋(太鼓橋)」「御神門」
SoribashiGoshinmon
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多賀大社 拝殿 写真 多賀大社  写真
「拝殿」「三つ柏」
Haiden
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多賀大社  写真 多賀大社  写真
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多賀大社 神馬舎 写真 多賀大社 神馬 写真
「神馬舎」「神馬」
ShinbashaShinba
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多賀大社  写真 多賀大社  写真
「大釜」
Oogama
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多賀大社 奉納絵馬 写真 多賀大社 奉納絵馬 写真
「奉納絵馬

藤かざす 人や大津の 絵のすがた」

「奉納絵馬」
Hounou-EmaHounou-Ema
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多賀大社 たがゆいちゃん 写真 多賀大社 お多賀杓子 写真
「たがゆいちゃん」「お多賀杓子」
TagayuichanOtaga-shakushi
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多賀大社(たが たいしゃ)

Tagataisha Shrine

滋賀県犬上郡多賀町多賀604

604,Taga,Taga-cho,Inukami-gun,Siga


延命長寿・縁結び・厄除け

お多賀さん

ご祭神

伊邪那岐大神(男神さま)

伊邪那美大神(女神さま)

古事記によると、この両神は高天の原で初めて夫婦の道を始められ、天照大神をはじめとする八百万の神々、 我々人間をはじめ草木一切にいたるまで有りとある生命をお生みになりました。 その後、琵琶湖を西に望む杉坂山にこ降臨になり、多賀の霊地に永久に鎮座になったと伝えています。

こ神徳はそうした生命の親神としてのこ由緒にちなみ、延命長寿、縁結び、厄除けの神様として有名で、 元正天皇、俊乗坊重源、武田信玄、太閤秀吉の母大政所の延命祈願など数々のこ社伝が伝えられております。

又、春の枝垂れ桜、秋の紅葉、更に周辺には彦根城や湖東三山、琵琶湖など数々の名所にも恵まれ、 年間を通じ二百万人近い参拝者を数えています。

お多賀しゃくし

元正天皇の病気に際し、当社の神主が強飯を炊き、しでの木で作った杓子を献上、天皇はたちまち治癒されたと伝え、 そのしでの木が現存する飯盛木で、杓子は「お多賀杓子」として有名です。

寿命石

平安の昔、東大寺の再建を命ぜられた俊乗坊重源は当社に参詣、二十年の寿命を授かりました。 寿命石はその由緒を伝える石として延命を祈る人が絶えません。

信玄の厄除祈願

武田晴信(信玄)は二十五才の厄年に際し、当社に黄金を奉納し、厄除を祈願しています。

遠藤喜右衛門の信仰

永禄十二年、浅井長政の家臣遠藤喜右衛門は来たるべき信長軍との戦いを前にして歌仙絵を奉納しております。 当時の武将の雄々しくも床しい心根がうかがわれます。

奥書院庭園

天正十六年、太閤秀吉は米一万石を奉納し、母大政所の病気平癒を祈りました。 太閤橋や奥書院庭園は、その奉納によって築造されたと伝えています。

ご参拝のいざない

◆ご祈祷は午前八時三十分から午後五時の間、受付ます。

◆奥書院庭園拝観(三百円)は、正月から節分の間をのぞき午前九時から午後四時の間、受付ます。

多賀大社 しおりより


多賀大社

〜由緒〜

古くから「お多賀さん」の名で親しまれる滋賀県第一の大社です。

日本最古の書物「古事記」によると、この二柱の大神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、日本の国土、続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。

生命(いのち)の親神様であることから、古く「延命長寿・縁結び・厄除け」の神様として信仰を集め、鎌倉時代から江戸時代にかけては、武家や民衆にも信仰が広まり、多賀大社の分祀社は全国239社を数えます。

春のしだれ桜、秋の奥書院の紅葉なども見事で、近辺には彦根城や湖東三山、琵琶湖などの名所にも恵まれ、年間約170万人の参拝者を迎えています。


多賀大社の概略

ご祭神 伊邪那岐大神  伊邪那美大神 

この男女二柱の大神は、はじめて夫婦の道をおこされ、わが国土と万物の神々と、その主宰神としての天照大神をお産みになられましたので昔から、わが日本国の祖神(おやがみ)さまと仰がれ、奈良時代の初めにできた「古事記」には、すでに淡海の多賀にご鎮座という記事が見えています。

そこで、早くより朝野の尊崇あつく、延命長寿、縁結び、厄除の霊神と仰がれ、元正天皇や俊乗坊重源、太閤秀吉の母大政所の延命祈願、武田晴信(信玄)の厄除祈願など数々のご社伝が伝えられております。

4月22日の多賀まつり(古例大祭)の騎馬40頭に及ぶご神幸は天下に名高く、他にも節分祭、お田植祭、万灯祭、9月古例祭、七五三なども大変なにぎわいを見せます。

室町時代以来の由緒をもつ全国各地の多賀講はあまりにも有名ですが、更に近年は崇敬会に加入して神縁を結ばれる人々も増加しています。

ご本社の左奥にある参集殿では、これらの人々のお食事、あるいは結婚式の披露宴なども行われています。

又、春の枝垂れ桜、秋の紅葉、国の名勝である奥書院庭園も見事で、年間を通じて約170万人の参拝者を数えております。


〜近代の名建築〜

多賀町指定文化財 多賀大社建造物十一棟

当神社は「古事記」にその名が記され、『延喜式』には、「多何(多賀)ノ神ノ社ニ座」とあって 古くから鎮座していたことがわかります。

社殿の造営については、古代から造替または修理がくり返されて現在に至っています。

江戸時代には、寛永の大造営(寛永十年から五年間)が行われました。 本殿・拝殿・庁屋・摂末社・本地堂・僧坊・書院・鐘楼・三重塔・日向社、さらに当時の末社であった 胡宮神社・大瀧神社・千代神社におよぶ大規模なものでした。

しかし、安永二年(1773)の大火災によって、本社をはじめ諸堂社すべてが焼失してしまいました。 その後、ただちに復興にとりかかり、翌年には書院が完成して、最小限ながら必要な建物が再建されました。 文化五年(1808)には三間社流造の本格的な本殿が造られました。 この本殿は、昭和の造営に際し豐郷町の白山神社に移築されて現存しています。

明治に入ると神仏分離令により仏教的な建築物は取り除かれました。 その景観は、明治二十八年(1895)の「大日本帝国淡海多賀大社全図」に見ることができます。

大正から昭和にかけての造営については『多賀神社造営誌』に詳しく記載されています。 これによると、明治以降、建物の再建・撤去が無計画になされたため、社殿配置に統一性が欠けておりました。

そこで、大正八年(1919)に明治神宮造営局技師 大江新太郎が境内を @神聖 A神厳 B清厳 C清雅 D自由区域の五段階に分けて設計を行い、 その計画をもとに壮大な造営事業が進められました。 この事業は、本殿(透塀を含む)・祝詞舎・幣殿(翼廊を含む)・神饌所の四棟を国費で行うことになり、 内務省技師 角南隆が総監督にあたりました。 また、国費以外の神社直営工事は、前記の大江新太郎が設計監督となって並行して行われ、 昭和八年に「昭和の大造営事業」がついに完成しました。 これが現在の社殿です。

表門から本殿まで、参道に沿って一直線上に配置された建物は巧妙に計算され、 なかでも拝殿から本殿にかけて段々状に重なった檜皮葺屋根は、華麗で変化に富んでまとめられており、 気品ある神々しさを醸しだしております。

多賀大社は、近代につくられた神社建築の中でも、最も優れた社殿として高く評価されています。

多賀町教育委員会

境内 案内板より


町指定文化財 多賀大社の「そり橋」

太閤秀吉が当社に寄せた信仰から、「太閤橋」とも呼んでいるが、実際には「太鼓橋」である。

築造は、江戸初期寛永15年に徳川幕府の助成もあって、大僧正義性によって本殿以下諸堂社の造営が行われた。

「寛永年間多賀大社絵図并指地図」に「そり橋」も記載されていることから、この大造営の際に築造されたものである。

この「そり橋」は神橋であって、例祭にはお神輿が渡られる。昭和7年の造営には、「そり橋」の附近が改修され現在に至っている。 お多賀さんの表玄関にふさわしい重厚な橋である。    

多賀町教育委員会

境内 案内板より


多賀大社奥書院

当社の創立は、古く「古事記」や「延喜式」にも見られる。

奥書院は、江戸時代当社の別当不動院の建物と伝えられ、規模は桁行14.05m、梁間8.96m、一重、寄棟造、 南面および西面庇付、桟瓦葺である。

現状の平面は、床、袋棚を備えた八畳の主室と十畳の次の間が名称庭園に面し、その南面に三室を並べて、 全体は六室構成になっている。 当初は主室側に西端より八畳、四畳、十畳の三室一列の中央部西側にも部屋をもつT字形の平面であったことや、 その後の変遷も昭和五十一年の半解体修理で明らかになった。 後世に、床、棚の設置と共に平面も大きく変り、更に南、西側の縁が増設されているが、 主要部には当初材が残る。

時代的な風格をもち、庭園と一体をなす重要な建物である。

滋賀県教育委員会

境内 案内板より


文庫

彦根藩は「桜田門外の変」の後、勤皇の旗印を明らかにした。 この転向に大きな役割を果たした人物は少なくないが、 中でも、多賀大社大祢宜車戸宗功は長州藩士伊藤俊介(後の博文)ら勤皇方と彦根藩老の仲介に奔走して偉功があった。 この文庫は当時車戸家の邸内にあり、長州や土佐の志士らと密議を行ったという。 維新前夜の秘史を物語る遺構である。

大釜

江戸幕府は多賀大社を崇敬すること篤く、寛永十一年(1634)より五年の歳月と三十万両の浄財を以って本殿以下の 大造営を完成し、其れより約六十年後の元禄十一年(1698)には再び大修復工事を相営み社頭の荘厳を整えた。 この二つの大釜は両度の正遷官をきねんして設けられた御湯神事の調度と云い伝えられている。

 


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