能仁寺
武陽山能仁寺は曹洞宗の寺院で、『新編武蔵風土記稿』によると、文亀年中(1501〜4年)に
中山家勝が斧屋文達を招いて創建したとされる。
天正一九(1591)年、徳川家康より五石の朱印地が与えられるが、
宝永二(1705)年、五代将軍綱吉の時に五十石に加増される。
それに力を尽くしたのが、家勝から四代後の中山直張の子で、
黒田家の養子となった直垂(のち直邦)である。
黒田家は、徳川綱吉が館林藩主であった時代に家老職であったため、
直邦は綱吉が将軍となってから、その小姓となって後破格の出世を遂げ、
能仁寺を菩提寺とした。
また能仁寺十三世泰州廣基も綱吉の病気を快癒させるなど信頼が篤く、
前天台座主一品公辯法親王直筆の山門額を賜っている。
能仁寺は、近世を通じて曹洞宗関三ヶ寺の一つである龍穏寺の末寺であったが、
飯能地方では20余の末寺をもつ有数の大寺であった。
しかし、慶応四(1868)年の飯能戦争て旧幕府方の振武軍の本陣となったため伽藍は焼失し、
現本堂は昭和11(1936)年九世萩野活道師によって再建された。
飯能戦争
慶応四(1868)年正月の鳥羽・伏見の戦いて敗れ、
「朝敵」となって江戸に戻った徳川慶喜、上野の寛永寺に謹慎した。
一橋家の家臣を中心とする旧幕臣たちは、主君の汚名をそそがんと「彰義隊」を結成し、上野の山に入った。
しかし彰義隊の頭取であった渋沢成一郎は、副頭取の天野八郎らと対立し上野を去り、
五月初旬に田無村(西東京市)で「振武軍」を結成する。
300人ほどとなった振武軍は、田無て周辺の村々から四千両を超える軍資金を調達し、箱根ヶ崎村に移った。
その後、新政府方の攻撃を受けた彰義隊の援軍に江戸へ向かったが間に合わず、
田無て上野戦争の残党などと合流して、5月18日飯能の町に現れた。
振武軍など旧幕府方は、能仁寺を本営に、智観寺・広渡寺・観音寺など六つの寺に駐屯した。
一方、明治新政府は、福岡・久留米・大村・佐土原・岡山の五つの藩に旧幕府方の追討を命じ、
これらの藩兵は5月22日扇町屋(入間市)に入った。
そして翌23日未明、笹井河原(狭山市)で旧幕府方と佐土原藩兵が遭遇して戦争が始まり、
午前六時頃には飯能の町も戦場となった。
この結果、200軒の民家と能仁寺、智観寺など4つの寺が焼失し、
飯能を舞台にした戊辰戦争(飯能戦争)は、わずか半日ほどで新政府方の勝利に終わった。
不動明王由緒
文化十年六月(1813年)、当山開基黒田直邦公の第六代久留里城主黒田佐兵衛丹治直人直方公が
武運長久、諸願円満、子孫栄昌を祈願して彫刻し奉ったもので、爾来「開運青不動」として諸衆の信仰をあつめてまいりました。
昭和54年尊像修復完成を機縁に御開帳し、広く善男善女の開運を祈念するものです。
不動明王とは、忿怒の相をして、魔障を除くはたらきがあると伝えられております。
矜羯羅(随順の意)童子が合掌し、制多迦(息災の意)童子が金剛棒を持ち脇侍しており、
毎年4月18日を縁日として祈祷いたします。
武陽山 能仁寺
能仁寺 境内 案内板より
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