京都 正伝永源院(しょうでん えいげんいん) Shoden-Eigen-in Temple 23.Nov.2016 天空仙人の神社仏閣めぐり
「正伝永源院」 |
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「正伝永源院」 |
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「正伝永源院」 |
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「正伝永源院」 |
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「襖絵 細川護熙 筆」 |
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「襖絵 細川護熙 筆」 |
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「表門」 | 「庫裏」 |
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Omote-mon | Kuri |
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「唐門」 | 「客殿」 |
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Kara-mon | Kyakuden |
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「正伝如庵」 | |
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Shoden-joan | |
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「織田有楽齋の墓」 | 「細川家 歴代の墓」 |
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Oda Urakusai | |
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Shoden-Eigen-in Temple
京都府京都市東山区大和大路通四条下る四丁目 小松町586
586,Komatsu-cho,4-chome,Shijo-kudaru,Yamato-Oojidoori,Higashiyama-ku,Kyoto-shi,Kyoto
京都 正伝永源院 縁起 正伝永源院は、元は正伝院と永源庵の二ヶ寺であり、いづれも我が国 最初の禅窟、 臨済宗大本山建仁寺の塔頭である。 正伝院は、大覚禅師・蘭渓道隆とともに中国より来日した義翁紹仁・勒論普堂揮師(弘安四年寂。 1281建仁十ニ世) を開山に鎌倉年間に創建された。 しばらく荒廃していたが大阪冬の陣後隠栖した信長の弟、 織田有楽斎長益が元和四年(1618)当院を再興し林泉の美を誇り名席如庵を建て悠々自適茶道三昧 のうち元和七年七十五歳天寿を全うする。 因みに法名を正伝院殿如庵有楽大居士と号し、 高さ四・五メートルの五重の石塔が正室雲仙院殿蓬丘清寿大姉とともに本堂の東に並び立っている。 また、永源庵は、無涯仁浩禅師(1294〜1359 出羽の人 建仁第三十九世)を 開山に南北朝時代に創建された。 師は二十五年間中国にあって禅を極め、帰国後細川頼有(熊本 細川家の始祖)の帰依を愛け、 その後代々師檀の間係が厚く、同家より永源庵に出家するものや住職になるものも数名を数え細川家の菩提寺として続く。 ところが明治初年の廃仏毀釈の政策により建仁寺は50余ヶ寺の塔頭が14ヶ寺(現在)にと大幅に削減させられた。 当時永源庵は無住であったため、たちどころに廃寺処分となったが、当庵が本山の真北に位置していたため、 堂宇を残し、少し離れた場所にあった正伝院がここに移って来た。 その結果正伝院の土地、建造物は売却の上、その金の寄付を強要された。 そのひとつが如庵である。 そしてしばらくは、 正伝院と呼んでいたが、時の侯爵である細川家の菩提寺であるため後に 永源の名を残し「正伝永源院」と名乗るようになった。 また、賤ヶ岳七本槍で名を馳せた、安芸五十万石の 大名福島正則寓居の地でもある。
絵師 狩野山楽 京狩野初代・狩野山楽(1559〜1635)は、近江出身です。 父は浅井長政の家臣で、浅井氏滅亡後は豊臣秀吉に仕えました。 その秀吉の推挙により山楽は、十六歳頃に狩野永徳の門人になったと伝えられています。 若い頃には永徳の絵画制作に従い、やがて狩野の姓を許されています。 永徳没後も、あふれる才能と抜群の技量によって、有力門人として活躍しました。 ところが、元和元年(1615)、突然の危機が訪れます。 大阪の陣による豊臣家の滅亡です。 山楽は、豊臣残党狩りの標的となって命を狙われ、一時期、石清水八幡の松花堂昭乗のもとに身を隠します。 その危機から救ったのは、公家の九条幸家およびニ代将軍徳川秀忠でした。 以降、四天王寺ゃ二条城など徳川家の仕事につきます。 命をつないだ山楽は、京都で描き続け、濃厚華麗な画風を後継の山雪に伝えていくことになります。 細川家と永源庵 永源庵は無涯仁浩 (建仁第三十九世1294〜1359)が開山であり清水坂鷲峰下に同庵を構えます。 当時の備後守護であった細川頼有公が同庵の門前で無涯に会い馬上から門法したことが縁で師壇の関係ができた。 以後、 細川家が同門住持に対する帰依は深まり同家から同庵に出家したり住職になるものさえ出ます。 1372年、永源庵はここで建仁寺塔頭に列し、以後細川家の庇護は明治迄続き、 現在の客殿は細川三斎公により再建され、その時の住持は、やはり細川家より出家した、 九岩中達 (建仁第300世) でした。 平成25年三月に第七十九代内閣総理大臣 細川護熙氏揮毫による襖絵二十四面が奉納されました。
正伝永源院並びに織田有楽斎の墓 当院は建仁寺の塔頭寺院の一つで、建仁寺第39世無涯仁浩(むがいにんこう)が創建し、もと永源庵と称したが、 明治6年(1873)廃寺となったため祇園にあった正伝院をこの地へ移し、のち「永源」の名を受け継ぎ現在の院名正伝永源院に改めた。 釈迦如来を本尊とし、客殿・庫裡・鐘楼・唐門のほか、表門の左手に織田有楽斎や近親者の墓がある。 寺宝には有楽斎に関する遺品が多い。 有楽斎は、織田信長の弟で本名を長益といい、茶人として有楽斎という号を使っていた。 信長の死後は剃髪し、千利休に師事して茶道の宗匠となった。 晩年は祇園花見小路四条下ルに正伝院を再興し、そこで茶道三昧の生活を送ったが元和7年(1621)に75歳で亡くなった。 有名な国宝茶室 如庵(じょあん)は有楽斎がそこで丹精込めて完成させた。 現在は所有が変わり愛知県犬山市に移転しているが、平成8年にはゆかりの寺である当院に如庵が復元された。 有楽斎の墓は正伝院の移転後も旧地に残っていたが、昭和37年(1962)秋、有楽斎夫人、息女そして孫の織田長好(ながよし)の三墓と共にここに移された。 現在も各地に有楽斎の茶道が受け継がれている。 京都市 案内板より |
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