早雲寺(そううんじ)
     Souunji Temple 
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早雲寺 Official Page
早雲寺 香爐峯庭園
「早雲寺 香爐峯庭園」

早雲寺 香爐峯庭園
「早雲寺 香爐峯庭園」

早雲寺 惣門 写真 早雲寺 中門 写真
「惣門」「中門」
SoumonChumon
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早雲寺 本堂 写真 早雲寺 本堂 写真
「本堂」「本堂」
HondoHondo
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早雲寺  写真 早雲寺  写真
「開山堂」「飾り瓦」
KaisandoKazari-kawara
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早雲寺 北條五代墓 写真 早雲寺 宗祇供養塔 写真
「北條五代墓」「宗祇供養塔」
Hojo Godai HakaSougi Kuyoto
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早雲寺  写真 早雲寺 扁額 写真
「宗祇 句碑

”世にふるも更に時雨の宿りかな”」

「扁額」
Sougi KuhiHengaku
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早雲寺 香爐峯庭園 北條幻庵作 写真 早雲寺 香爐峯庭園 北條幻庵作 写真
「香爐峯庭園 北條幻庵作」「香爐峯庭園 北條幻庵作」
Kouroho TeienKouroho Teien
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早雲寺  写真 早雲寺  写真
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早雲寺  写真 早雲寺  写真
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早雲寺  写真 早雲寺  写真
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早雲寺(そううんじ)

Souunji Temple

神奈川県足柄下郡箱根町湯本405

405,Yumoto,Hakone-machi,Ashigara-shimo-gun,Kanagawa


早雲寺は、大永元(1521)年、北条早雲の遺命により、その子氏綱によって建立された寺であり、 以来北條氏一門の香火所としてその盛衰をともにし現在に至っています。 この寺には北條文化の香りを伝える数多くの文化財が残されており北條文化を語るのに欠くとのできない寺です。

境内 案内板より


史跡北條五代の墓

 天正十八年(1590)四月五日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り本陣とした。 六月下旬石垣山一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、 塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。

 七月五日北條氏が降伏し、同十一日氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。 なお北條一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内内狭山に約一万石を許され(狭山北条氏)、 鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて(玉縄北條氏)、その家系は江戸時代を通じて存続している。

 早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北條両家の外護は欠かせないものであった。

 こうして、北條五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日狭山北條家五代当主氏冶によって、 早雲公(伊勢新九朗長氏)の命日に竣工したのである。 小田原北条氏滅亡から八十二年後のことである。

北條早雲 (1432〜1519)

俗名、伊勢新九郎長氏。備前生、戦国時代初期を代表する武将。 京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。 伊豆韮山で没。享年八十八歳。

北條氏綱(1486〜1541)

父早雲の遺志を継ぎ武蔵・下総へ進出、小田原北條氏の領国を拡大した。 享年五十六歳。

id="center" 北條氏康(1515〜1571)

扇谷上杉を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営にすぐれた手腕を発揮した。享年五十七歳。

北條氏政(1538〜1590)

夫人は信玄の娘黄梅院。信玄の西上を後援、その没後は信長と連携して武田勝頼討伐に加担。やがて秀吉に敗れ切腹。享年五十三歳。

北條氏直(1562〜1591)

夫人は家康の娘督姫。下野宇都宮氏を降し後北條氏最大の領国を形成。上野真田昌幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立して破れる。 家康の助命で高野山に流さる。享年三十歳。

境内 案内板より


宗祇法師之墓

「連歌師飯尾宗祇は、文亀元年(1501)二月越後上杉氏の許を発ち、 弟子宗長・宗碩らと関東各地で連句を催しながら駿河・美濃に向かう旅の途上、 翌文禄二年七月三十日箱根湯本で客死した(享年八十二歳)。

弟子たちは、宗祇の遺骸を担いで箱根山を越え富士山の裾野、桃園の定輪寺に埋葬した(宗長『宗祇終焉記』)。 早雲寺の宗祇の墓は、終焉の地に建てられた供養塔である。

江戸時代に入ると多くの俳人や旅人が宗祇を偲んで早雲寺を訪れ、連句や画像を奉納するようになった。 蕉門の服部嵐雪は元禄十二年(1699)宗祇墓前で『石塔を撫でてはやすむ一葉かな』の句を詠み、 幕府歌学方の北村季吟は同十四年宗祇二百年忌の連吟を早雲寺に奉納している。

稲津祇空は紀伊国屋文左衛門の手代をしていた頃、 蕉門の榎本其角から俳句を学び正徳四年(1714)住職柏州和尚を戒師として宗祇墓前で剃髪出家して宗空と号し、 江戸浅草を中心に活躍したのち、享保十六年(1731)再び早雲寺を訪れ境内に石霜庵なる草庵を結んで宗祇の墓守として晩年を送った。 同十八年四月に十三日没(享年七十歳)」

境内 案内板より


早雲寺開山以天宗清 (1472〜1554)

文明4年京都伊勢氏の被官蜷川氏の子として生まれる。 東山泉涌寺で得度し、のち紫野大徳寺で東海宗朝に師事した。

東海の師は、明応年中大徳寺に龍泉庵を開創した陽峰宗であり、陽峰−東海−以天の法の流れは早雲寺を中心に関東龍泉派を形成する。 また、陽峰の師は早雲が大徳寺で参禅した春浦宗熙で、早雲寺開創にあたり以天を招いた背景には、 伊勢氏や春浦につながる人脈があったからと思われる。

以天は、永生年中まず伊豆韮山の香山寺に入り、大永元年(1521)の早雲寺の早雲寺創建にも深く関わっていくが、 この間、大徳寺にも出世している(八十三世)。 早雲・氏綱・氏康の三代にわたり小田原北条氏の帰依を受けた以天は、早雲寺を関東屈指の禅刹に育て、 大室宗碩(小田原市風祭宝泉寺開山)など多くの弟子を輩出し、 天文十一(1542)後奈良天皇より正宗大隆禅師なる禅師号を勅旨されている。

以天の事績で特筆されるのは、雪舟後の代表的な水墨画家として著名な雪村周継(生没年不詳)との交流である。 雪村は天文十五年前後、会津蘆名盛氏に仕えていたが、同十八年頃中央文化との接触を求めて鎌倉・小田原に来遊し、 以天のいる早雲寺をめざしたのである。 機雪と号し自ら墨絵を嗜んだ以天との交友に時を過ごした雪村は、大室ら弟子達の求めに応じて、 天文十九年(1550)以天の頂相を描いている(雪村四十七歳か)。

以天が天文二十三年一月一九日、八十三歳で示寂したのちも、雪村と大室ら早雲寺の禅僧との交流は長く続いていたことは、 晩年の破墨山水図に大室が賛をしていることからもわかる。

なお早雲寺には伝雪村筆の三幅の羅漢図が伝来している。

境内 案内板より


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