勝興寺(しょうこうじ)      Shoukouji Temple       23.Nov.2017        天空仙人の神社仏閣めぐり

勝興寺 Official Page
勝興寺
「勝興寺 本堂」

勝興寺
「勝興寺 唐門」

勝興寺 写真 勝興寺  写真
「勝興寺 本堂」
拡大 画像Click拡大 画像Click

勝興寺  写真 勝興寺  写真
「唐門」
拡大 画像Click拡大 画像Click

勝興寺  写真 勝興寺  写真
拡大 画像Click拡大 画像Click

勝興寺  写真 勝興寺  写真
「山号額」
拡大 画像Click拡大 画像Click

勝興寺  写真 勝興寺  写真
拡大 画像Click拡大 画像Click

勝興寺 写真 勝興寺 写真
「天から降った石」「実ならずの銀杏」
拡大 画像Click拡大 画像Click

勝興寺(しょうこうじ)

Shoukouji Temple

高岡市伏木古国府17番1号

17-1,Fushiki-Furu-Kofuku,Takaoka-shi,Toyama


勝興寺の歴史 沿革

本願寺八世蓮如上人が、文明3年(1471年)越中の布教の拠点として、 砺波郡蟹谷庄土山(現在の南砺市福光土山)に土山御坊を開き、蓮如の子孫が代々住職を勤めました。

本願寺が門跡に任じられると他の寺院とともに院家に任じられるなど、 真宗王国越中における代表的寺院であると同時に、本願寺を支える連枝寺院の一つとして重要な働きをなしてきました。

戦国時代には、越中一向一揆の旗頭として活躍し、越前朝倉氏、甲斐武田氏をはじめとする戦国大名や、 本願寺、京都公家などと関係を深めていくようになり、当時の複雑な政治情勢の中で、何回かの移転を重ねて、 天正12年(1584年)に現在地の高岡市伏木古国府に移りました。

藩政時代に入ると加賀藩前田家と関係を深めるようになり、越中における浄土真宗の触頭として、 近代に至るまで繁栄しております。

現在、約30,000uの広大な境内には、本堂をはじめとし、 12棟の建造物が重要文化財に指定されております。

本堂は勝興寺住職より還俗して、加賀藩主第11代を継いだ前田治脩の支援を受け、 西本願寺の阿弥陀堂を模して寛政7年(1795年)に建立されたものであります。 これら重要文化財12棟は、江戸時代中期から後期にかけて建立されたものです。


万葉歌碑

勝興寺境内は天平の昔、越中国庁の所在地であり、万葉の代表歌人「大伴家持」が五年間国守としてこの地に赴任し、 多くの秀歌を万葉集に詠んでいます。 境内には家持の歌碑や越中国庁跡の碑があります。

勝興寺に伝わる七不思議

1.実ならずの銀杏(本堂前)

2.天から降った石(本堂前)

3.水の涸れない池(本堂南側)

4.屋根を支える猿(本堂屋根下の四隅)

5.魔除の柱(本堂内南側の奧)

6.雲龍の硯(宝物収蔵庫)※現在は本堂内

7.三葉の松(本堂北側)

勝興寺 しおりより


重要文化財 勝興寺 唐門

棟札   一枚

旧獅子ロ 一個

昭和六十三年一月十三日指定

この唐門は、「取調書」(勝興寺蔵明治29年・再調べ)には明治26年に建築されたと記録されている。 一方では京都「興正寺」の唐門を買い受け北前船で運び現在地に移築したという伝承もあった。

このように唐門の建築年代や由来等については従来は不明であったが、 その構造や意匠が勝興寺の他の建造物群とは異質であるとの指摘もかねてよりなされていたところ、 近年の調査により建築年代と由来等が判明した。

昨年の調査で寺務所より発見された棟札と本堂床下に放置されていた旧獅子ロの?書きにょり、 明和6年(1769)に京都「興正寺」で建築されたことが確認された。

また、小屋裏等には移築された痕跡が明瞭に残っいたことにより明治年代に勝興寺に移されたことも推定された。

この門は、銅板葺切妻造屋根の前後を唐破風造で通した 「前後唐破風造」という全国的にもあまり類例のない形式をとり全体的には木太い均整のとれた建物で、 牡丹唐草の腰欄間や雲波龍の欄間あるいは、 妻飾りの太瓶束の笈形等の各所にもちいられた絵様や彫刻は時代の特徴をよくあらわしている。

高岡市教育委員会

境内 案内板より


勝興寺の歴史と宝物

文明三年(1471)本願寺八世蓮如が北陸布教の途中、 砺波郡土山(現在の福光町土山)に一寺を建て土山御坊と称した。これが勝興寺の前身である。

明応三年(1494)に砺波郡高木場(福光町高窪)、 永正十六年(1519)砺波郡末友安養寺村(小矢部市末友)へと移転し、 それに伴い勢力を拡張し、井波の瑞泉寺とともに一向一揆の中心として活躍した。

天正九年(1581)に木舟城主石黒左近によって諸堂舎を焼かれた勝興寺は、 天正十二年(1584)に佐々成政を介して神保氏張より現地古国府の地の寄進を受け 翌年、越中に入った前田利長も制札を与え安堵した。

この頃より勝興寺は加賀藩および本山と密接なつながりをもつようになる。 第十三代昭見の室は本願寺准如の女、第十四代円周は准如の男、 その室は加賀藩三代藩主利常の養女、 第十八闡真は六代藩主吉徳の八男で後に還俗して十一代藩主を襲封し治脩と名乗る。 十九代闡郁は本願寺法如の男、室は治脩の養女、二十一代は本如の男等である。

このような勝興寺の格式や来歴を物語るものとして数多くの寺宝がある。 武田信玄、浅井長政、豊臣秀吉、佐々成政、神保氏張等の文書、 蓮如、顕如等の筆跡や文書は一揆活動華やかなりし頃の好資料である。

絵画、工芸品は縁組みの際持参された大名道具、公家調度品であり、 洛中洛外の図、日月の図屏風を始めこれらの寺宝のうち、 工芸品二十八点、絵画・彫刻十六点、書跡十三点、古文書百八十点が富山県文化財に指定されている。

高岡市教育委員会


ホーム神社・仏閣めぐり初詣おすすめスポット御利益別寺社一覧御利益グッズ言い伝え


Copyright © 2017 I.HATADA All Rights Reserved.

inserted by FC2 system