佐野厄除け大師 惣宗寺(そうしゅうじ)
      Soshuji Temple 
            15.Nov.2018
             天空仙人の神社仏閣めぐり

佐野厄除け大師 惣宗寺 本堂
「佐野厄除け大師 惣宗寺 本堂」

佐野厄除け大師 惣宗寺 鐘楼門 写真 佐野厄除け大師 惣宗寺 鐘楼門 写真
「本堂」「本堂」
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佐野厄除け大師 惣宗寺 本堂 写真 佐野厄除け大師 惣宗寺 本堂 写真
「元三大師堂」「元三大師」
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佐野厄除け大師 惣宗寺 庫裡 写真 佐野厄除け大師 惣宗寺 庫裡 写真
「水子地蔵尊」
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佐野厄除け大師 惣宗寺  写真 佐野厄除け大師 惣宗寺  写真
「角大師の御札」
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佐野厄除け大師 惣宗寺  写真 佐野厄除け大師 惣宗寺  写真
「パゴダ供養塔」「銅鐘」
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佐野厄除け大師 惣宗寺 庫裡から見た合掌造り 写真 佐野厄除け大師 惣宗寺 庫裡から見た合掌造り 写真
「麗水観音」「菊慈童」
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佐野厄除け大師 惣宗寺 庫裡 写真 佐野厄除け大師 惣宗寺 庫裡 写真
「お釈迦さま像」「田中正造翁墓」
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佐野厄除け大師 惣宗寺 庫裡 写真 佐野厄除け大師 惣宗寺 庫裡 写真
「金銅大梵鐘」
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佐野厄除け大師 惣宗寺 庫裡 写真 佐野厄除け大師 惣宗寺 庫裡 写真
「絵馬」「絵馬」
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佐野厄除け大師 惣宗寺(そうしゅうじ)

Soshuji Temple

栃木県佐野市金井上町2233

2233,Kanai-Kamicho,Sano-shi,Tochigi


春日岡山縁起

関東三大師

佐野厄除け大師

こゝろの闇の暗きをば み法の燈こそ照らすなれ

永劫の光り頼む身は 照らさぬ所もなかりけり

春日岡山の歴史

春日岡と呼ばれ、多くの人から親しまれている寺である。 朱雀天皇の944(天慶7)年三月、奈良の僧宥尊上人が開いた寺で、 最初は日本の仏教で最も古い南都六宗の法相に属し、正しくは春日岡山転法輪院惣宗官寺という。

藤原秀郷公が平将門降伏の誓願により、佐野の春日岡(現在の城山公園)の地に、 春日明神の社殿とともにお寺を建て朱雀天皇に申し上げたところ、 天皇は大変喜ばれ「春日岡山惣宗官寺」の勅額を賜わったといわれている。 それ以来、藤原一門の信仰あつく栄えたが、平安時代の末期の保元・平治の頃には衰えた。 その後比叡山の僧で俊海という人が、父の藤原光憲から「春日岡は、わが祖先である秀郷公の創立した氏寺である。 昔、保元、平治の乱に殿堂が焼けて灰になったが、父の志を継ぎ修業の後にこの山を復興せよ。」 この事を深く心にとどめ、この寺の荒れ果てたことを憂い、正応年間(鎌倉時代)に信徒を集めて、 藤原一族および北条氏一門の有志とはかり、鎌倉幕府九代執権北条貞時をさとして、 1297(永仁5)年八月に復興完成し、これ以後「法華経」を所依の経典とし、 伝教大師を宗祖と仰ぐ天台宗となる。 その後第十二世の僧豪海のときに1600(慶長5)年、秀郷公から三十代の佐野信吉公が、 唐沢城をこの春日岡(城山公園)に移すにあたり、寺は現在地に移転した。 徳川時代には御朱印五十石を拝領し、寺社奉行も置かれ、三代将軍家光公も参拝する等徳川幕府との縁故も深い。 また当山は、厄よけ元三慈恵大師(御本地・如意輪観音)を安置し、厄よけ、身体安全の祈願を続けており、 年毎に信者が激増し、正月大祭には約百万人以上の参拝客を仰いでいる。


厄よけ大師とは

大師は俗姓を木津氏といって十二才の時、比叡山に登り出家し、法名を良源と称した。 966(康保3)年十八代天台座主となり叡山中興の祖とあがめられた。 985(永観3)年世寿七十四才で遷化され、慈恵大師と申し上げる。 大師は生前より密教の行法を深く修め、多くの神秘奇蹟の多かったところから、俗間の信仰をあつめている。 当山安置の大師像は、大師生前の時、画かれた現存する日本最古の御影であり、 当山が最も誇り得るわが国の至宝といえる。 大師四十二才のとき、比叡山解脱谷においてこの世の人々の厄難苦悩をあわれみ、 能化世間苦の秘法を感得したまい、如意輪観世音のご化身といわれている。 なお当山には、上野寛永寺門跡一品親王直筆による大師称名の御真筆も拝領している。


奇跡れいすい観音

平成二十四年一月九日未明、盗難に遭いましたが皆様の願いが通じ同年二月二十二日朝、 駐車場(佐野市大町二七三八-一五)に雨の中一人でたたずんでおり、無事に帰ってきました。 奇跡「れいすい観音」と呼ばれております。 「麗水観音」水は「生死の海」の水を意味する。 即ち私たちの迷いの日常を泥海にたとえたものです。 「南無観世音菩薩」と唱えて救いを求める時「善星皆来悪星退散」の極妙楽の世界が開け「生きる力」を与えてくれる。


水子地蔵尊

昭和五十三年四月落成、百万信徒の浄財により建立された。

ご本尊は身の丈、約八尺余り、総金ぱく押しの仏体で日本随一といわれている。 建物も珍しい円型多宝塔造りである。 日本では年間約二百三十万人もの幼な児のみ魂が闇から闇へほうむられているといわれており、 厄除大師一千年御遠忌の記念事業として建立された。

春ひがん 三月一日〜三月三十一日

春秋ひがん供養、うら盆供養、千灯供養(八月十六日)等。

秋ひがん九月一日〜九月三十日


子育地蔵尊

−はけば塵払えば又も散り積もる人の心も庭の落葉もー

ふくよかで愛らしい笑顔のお小僧さんで、竹ぼうきをもって立っているまめまめしいお姿は、 お子様の無事成長を願う親達の心に言い知れぬ期待感を与えるお地蔵様です。 参拝する親子連れがタワシでお体を洗うことによって丈夫な子、まめな子、 よく働く人間に育つといわれており毎日にぎわっております。 昭和五十三年水子地蔵尊の建立を祝って建てられた日本でも珍しいお掃除小僧さん(子育地蔵尊)です。


金銅大梵鐘

−厄除元三慈惠大師一千年御遠忌記念事業−  昭和五十九年四月完成

厄除元三慈恵大師一千年御遠忌を記念して建立された「金銅大梵鐘」は、 人間国宝香取正彦先生によって謹製され、日本一大きな金の梵鐘で、直径1.15メートル、重量約2トン、 朱塗りの切妻造りの鐘楼におさめられている。 鐘身の片面中央(池の間)に円相をつくり、中に一切衆生の願望を満たし苦しみを救ってくれる、 蓮台上に座る如意輪観世音菩薩(厄除大師の御本地)立ひざをして頬杖をつき、一つの手に如意宝珠、 またの手に法輪をもって人々にやさしく語りかけている。 片面には同じく円相内に如意輪観世音の種子(子)であるキリークをあらわす。 そして鐘座の左右に男女の童形合掌像が配置されている。 この金鐘をおさめる鐘楼は日光の国宝修理の権威者で、文化財建築の第一人者といわれた、 故中里茂先生によって設計建築された。


春日稲荷大明神

藤原秀郷公が平将門降伏の誓願により佐野の春日岡(現在の城山公園)の地に 春日明神の社殿とともに当山を建立し(承平七年三月、西暦937年)朱雀天皇の勅額を賜わる。 以来「春日稲荷大明神」を鬼門除けの大明神として、また家内安全、方位除災、 商売繁昌に霊験あらたな「稲荷信仰」として祭祀され今日に至る。 昭和六十一年元旦改修。 例祭、旧二月の午の日「春日稲荷」分神の授与をお申し込み下さい。


パゴダ供養塔 −宝珠は深く仏を信じる魂−

藤原秀郷公が春日の神霊を旭ヶ岡(姥ヶ城、現在の佐野城山公園)に祭祀(朱雀天皇・承平七年937年)されてから一千五十年の嘉辰に当たり、 これを記念して約五年の才月をかけて建立された。 三界萬霊有縁無縁の霊、戦争災害死者、事故横難死者、 水子霊等を供養する功徳莫大な「聖衆倶会楽」(極楽で受ける十楽の 第七極楽ではつねに無数の聖衆が一処に会合して互いに言葉をまじえ法楽を得ること)の塔である。 四メートルの方形基壇に六つの相輪と一つの塔身水煙をつけた宝珠からなり、高さ八メートルを有する。 相輪は六道輪廻を、塔身上部は天をあらわし、そこに位置する宝珠は深く佛を信じる魂そのものである。 高さは力、そして希望であり、シンメトリー(左右対象)は安定と荘厳さである。 天に向うパゴダを八枚の蓮弁がしっかりと支えている。 基壇においては古代インドサンチー遺跡のものをアレンジデザインしている。 製作者は陶芸家で人間国宝となった田村耕一氏(故)のご子息であり二科会会員であった彫刻家の田村了一氏(故)の作品である。


「義人田中正造翁の墓」

日本の公害の第一号といわれている足尾鉱毒事件の救世主、田中翁の分骨地である。 近代日本の先駆者としての翁の功績をたたえ、百回忌をこえた今日でも毎年九月四日同志の人々が集まり、 法要をいとなみ続けて今日に至っている。 年間数多くの人々が翁の霊前にぬかづき、日本の平和を祈念している。


石川啄木歌碑

タ川に草は枯れたり

血にまとう民の叫びの

など悲しきや      啄木

近代日本の先駆者、田中正造翁は、明治三十四年十二月十日、第十六議会開院式から帰る途中の明治天皇に、 足尾鉱山鉱毒被害による渡良瀬沿岸農民の窮状を直訴する。 当時盛岡中学四年在学中の啄木は、この感動を三十一文字に託した。 奇しくも、この年創立された県立佐野中学校(第四中学)の生徒達にも鉱毒の惨状は強い衝撃を与え、 作文その他に残されている。啄木生誕百年を記念して建立された。


縁結び道祖神

−絵馬札を奉納しましょうー

己れを愛する如く、他人を愛する男神の手の温みに女神はかすかにほえんでいる。 ほのぼのと心あたまる男女の慈愛の世界が開かれており愛の祈りがうかがいしれる。


菊慈童

中国古代の「周の穆王の侍童で、中国河南省南陽郡れき県に住み、菊水を飲んで不老長寿であったと伝う」

古名は鞠水。この川の崖上にある菊の露がこの川にしたり落ちてその水きわめて甘く、 水辺に住むものがその水を飲めば長命するともあり不老長寿の神として信仰された。 当山の飲み水は、地下約百二十メートルから汲み上げられており、その守護神として建立された。


熱海別院

−熱海市伊豆山ー

静岡県熱海市に布教と参拝者の便宜をはかる懸案の別院が建立された。 木造平屋建て約330平方米で建築の粋をこらした優雅な和風建築で、 美しい庭園にはたくさんの樹木が植え込んである。 約1,000平方米の庭に立つと伊豆半島はじめ、初島、大島などが眺望できる熱海市伊豆山の景勝地である。 なお、この熱海別院は、将来の中京地区布教の足がかりとしてより一層、整備拡充される方針である。


文化財その他のご案内

佐野東照宮

−昭和・平成の解体大修理工事完成−

本殿、拝殿、透塀、唐門

重要文化財(県指定)

徳川家康公のみ霊が静岡県久能山より日光遷座の途中、元和三年三月二十八日一泊、 この仏縁により諸大名の寄進にて本殿等の造営が成り、江戸後期を代表する華麗、精緻な技巧によって完成された。 (昭和五十七年八月二十七日付にて県指定重要文化財となる。) 全国に祭祀されている東照宮社殿四百余社の中、最もすぐれた建造物と高く評価されている。 境内の乾の地に東照宮は造営されている。 本殿の前面に拝殿、唐門を建立し、当時は更に本地堂、水屋、等の建物も造営された由であるが、 現存するものは前記の三棟と本殿周囲の透塀である。


鐘楼堂

鐘の取り付けの箇所に、日本でも珍しいホロウという中国の文化にみられる架空の動物がつけられており、 江戸明暦期における当佐野市の天明鋳物の代表的な名作で、 当時105人の鋳物師達が精進潔斉して造りあげた名作として、佐野市指定の文化財となっている。


山門

当山が江戸初期(慶長八年)、現在の城山公園(両毛線北にある)より、現在地に移転する際、 移されたもので、約十万石の格式をもつ大名の大門といわれており、 総けやき造りの堂々たる風格を誇る山門である。


新書院

昭和五十四年以来三年有余の歳月を費やして昭和五十七年六月完成したものである。 大玄関、金、銀、銅の間、格天井は葵の紋にて飾られ仏間形式の床の間等、 細かな点にまで美的配慮が施されている。 二階は十六菊のご紋の格天井、書院造り上段の間等々、江戸期建築の美しさを盛り込んだ昭和期を代表する書院といえる。


ご本堂の額

当山のご本堂に一歩入ると次のような額が柱に掛けてありますが、それは次のように書かれています。

○度脱諸衆生 入佛無漏智

すべてのたくさんの数の如来は数かぎりない方便を使ってすべての多くの人々を導いて、 み仏の平等の智えの世界に誘い導いてくれる。

○若有聞法者 無一不成佛

それだけに幸いにしてもし法を聞くことが出来るならば、誰れ一人として成仏しないという事はなく、 まちがいなく悟りの世界即ち仏の世界へと導かれ安穏の毎日に入り住むことが出来る。と、 つまりこの文字はお釈迦さまが最晩年に説かれた教えで、 仏教の最高教典とも言われている「法華経」八巻のうち第一巻「方便品」第二に説かれているお経ですが、 とくに最も主要な部分をなしている正宗分といわれています。


金銅大護摩釜

平成二十六年七月開眼

当山第三十九世中興心院大僧正聖順大和尚様が、 厄よけ大師様からのお告げで「祈願の諸願成就を願うのであれば、金銅の護摩釜で護摩を拝みなさい」により 日本随一の金銅大護摩釜を造り日々、厄よけ、方位よけ、護摩祈願を行なっております。

佐野厄除け大師 しおりより


厄除元三慈恵大師一千年御遠忌記念事業

一、金鋼大梵鐘について

厄除元三慈恵大師一千年御遠忌を記念して建立された金銅大梵鐘は、 人間国宝香取正彦先生によって謹製され、日本一大きな金の梵鐘で、 直径1.15メートル重量約2トン、黒塗りの切妻造りの鐘楼におさめられている。 鐘身の片面中央(池の間)に円相をつくり、中に一切衆生の願望を満たし苦しみを救ってくれる、 蓮台上に座る如意輪観世音菩薩(厄除大師の御本地)−立ひざをして、頬杖をつき、1つの手に如意宝珠、 またの手に法輪をもって人々にやさしく語りかけている。− 片面には同じく円相内に如意輪観音の種字子であるキリークをあらわす。 そして撞座の左右に男女の童形合掌像が配置されている。 この金鐘をおさめる鐘楼は、日光の国宝修理の権威者で、 文化財建築の第一人者といわれている中里茂先生によって設計建築された。

昭和五十九年四月完成


佐野市指定有形文化財(建造物)

金井上町2233 惣宗寺

惣宗寺山門

平成30年2月15日指定

桁行 6.58m

梁間 2.45m

山門に彫刻や、装飾金具が流され重厚ながら華やかさがある。 これらの特徴のほか、左右の柱の上部に取り付けられている銅製金具は、 天明鋳物師によって寄進され、承応4年(1655)の銘が刻まれていることから、江戸の初期の建造物とされる。

平成30年3月佐野市教育委員会


菊慈童 きくじどうじ 

中国古代の「周の穆王の侍童で、中国河南省南陽郡れき県に住み、菊水を飲んで不老長寿であったと伝う」 古名は鞠水。この川の崖上にある菊の露がこの川にしたたり落ちてその水きわめて甘く、水辺に住むものがその水を飲めは長命するともあり不老長寿の神として信仰された。


田中正造翁の墓

田中正造翁(1841〜1913)は佐野市小中町に生まれ、 この惣宗寺を本拠地として政治の道に進み、栃木県会議長を経て帝国議会代議士となり憲政史上に不朽の名を留め、 全生涯を正義の旗手として人権の尊重と自然保護のために捧げました。 翁の没後、当寺院で本葬が執行され、遺骨は、ゆかりの地五か所に分骨埋葬されました。 なお、翁に関する資料は、左記の博物館で収蔵・展示しております。


惣宗寺 田中正造墓所

正造分骨地の一つである惣宗寺墓所は、正造翁が生前自然石を酷愛せる事万人の知悉せるところにより、 その心事を採酌し、大正九年六月十一日、自然石を以て正造の精神を敬仰し、 その徳風を追慕し、 又遺風を後世に永く伝えるため、渡良瀬川流域産出の用材により建設さた因縁など、 郷土の先覚者正造の重要な史跡である。

平成十八年二月

佐野市教育委員会


麗水観音

水は「生死の海」の水を意味する即ち私達の迷いの日常を泥海にたとえたものです。 「南無観世音菩薩」と唱えて救いを求める時「善星皆来・悪星退散」の極妙楽の世界が開け「生きる力」を与えてくれる。


奇跡 れいすい観音

平成二十四年一月九日未明、盗難に遭いましたが皆様の願いが通じ同年二月二十二日朝、16番駐車に雨の中一人でたたずんでおり、 無事に帰ってきました。 奇跡「れいすい観音」と呼ばれております。


パゴダ供養塔

ー宝珠は深く仏を信じる魂−

藤原秀郷公が春日の紳霊を旭ヶ岡姥ヶ城、現在の佐野城山公園に祭祀(朱雀天皇・承平七年−937年ー)されてから 一千五十年の嘉辰に当たり、これを記念して約五年の才月をかけて建立された。 三界萬霊有縁無縁の霊戦争災害死者、事故横難死者、水子霊等を供養する功徳莫大な聖衆倶会楽(極楽で受 ける十楽の第七極楽ではつねに無数の聖衆が一処に会合して互いに語をまじえ法楽を得ること)の塔である。 四メートルの方形基壇に、六つの相輪と一つの塔身水煙をつけた宝珠からなり高さ八メートルを有する。 相輪は六道輪廻を塔身上部は天をあらわし、そこに位置する宝珠は深く佛を信じる魂そのものである。 高さは力、そして希望であり、シンメトリー(左右対称)は安定と壮厳さである。 天に向うパゴダを八枚の蓮弁がしっかりと支えてい る。 基壇においては古代インドサンチー遺跡のものをアレンジデザインしている。

合掌

開創千五十年嘉辰

昭和六十二年五月吉日

制作者 田村了一

東京芸大彫刻科卒

二科会


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