久能山 東照宮(くのうざん とうしょうぐう) Kunouzan Toshogu 18.March.2019 天空仙人の神社仏閣めぐり
「久能山 東照宮 唐門」 |
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「久能山 東照宮 唐門」 |
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「久能山 東照宮」 |
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「久能山 東照宮」 |
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「神庫」 |
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「楼門」 | 「神号額」 |
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Romon | Shingogaku |
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「随身」 | 「随身」 |
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Zuishin | Zuishin |
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「狛犬」 | 「狛犬」 |
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Komainu | Komainu |
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「鳥居」 | 「鼓楼」 |
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Torii | Koro |
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「三重塔旧跡」 | 「神庫」 |
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Sanjunoto Kyuseki | Shinko |
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「唐門」 | 「金のなる木」 |
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Karamon | Kane no naru ki |
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「拝殿」 | 「本殿」 |
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Haiden | Honden |
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「神廟」 | 「神廟」 |
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Shinbyo | Shinbyo |
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Kunouzan Toshogu
静岡県静岡市駿河区根古屋390
390,Negoya,Suruga-ku,Shizuoka-shi,Sizuoka
久能山東照宮 久能山には、推古天皇(592年〜628年)のころ、久能忠志が建立したと伝えられた久能寺があった。 静岡茶の始祖と言われる聖一国師がここで修行し、また,多くの名僧が往来し隆盛を極めた。 下って永禄11年(1568年)駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を現在の鉄舟寺に移し、この要害の地に久能城を築いたが、 武田氏の滅亡とともに徳川氏の領有するところとなった。 徳川家康公は、大御所として駿府に在城当時「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたと言われる。 元和2年(1616年)駿府城にて薨去後、その遺言により、ここに葬られた。 元和3年(1617年)二代将軍秀忠公によって社殿が造営され、我が国最初の東照宮となった。 権現造、総漆塗、極彩色の社殿は、江戸時代を代表する大工棟梁、中井大和守正時の手によって造営され、 平成22年には、本殿・石の間,拝殿が国宝に指定された。 そのほか、神庫、神楽殿、鼓楼等の建物も重要文化財に指定されている。 彫刻、模様組物等は桃山時代の文化の面影を残しながら、江戸初期の特徴を伝えている。 重要文化財 樓門 前面に後水尾天皇の御宸筆「東照大権現」の額が掲げてあるので勅額御門とも称する。 元和三年の建造である。 西暦 1617年 神廟 徳川家康公の御遺体が納められた廟です。 当初この地には小さな祠が建てきれていましたが、三代将軍コ川家光公によって石造りの塔に改められました。 その事から江戸時代は御宝塔と呼ばれ、明治時代以降は神廟と呼ばれています。 家康公の御遺命に従い、西向きに建てられています。 「金の成る木」について ご祭神、コ川家康公にまつわる多くの遺話の中に「金の成る木」があります。 これには前面右の楠の大樹がふさわしいと思われます。 家康公が家臣たちに『金の成る木』について問われたところ誰も知らず、 家康公は自ら筆を把られて三本の木を描き、『よろず程のよ木』『志ひふかき(慈悲深き)』『志やうぢ木(正直)』と書かれ、 「これを常々信用すれば必ず富貴が得られよう」と仰せられました。 その後、細川忠興公がこれに左右の枝を描き『あさお木(朝起)』『いさぎよ木』『志んぼうつよ木』『ゆだんな木』 『ようじょうよ木(養生)』『かないむつまし木』と書き加えられ 「左右の枝が繁昌するならば一段と富貴が得られるであろう。皆々この『金の成る木』を写し取って家内のものに教えるように」と命ぜられたといいます。 ご参拝の皆様にはこの『金の成る木』にあやかられ、毎日が心豊かで健やかな生活をおくられます様ご祈念申し上げます。 国指定史跡 久能山 久能山の歴史 久能寺久能山には、古く平安時代初期に開創された「補陀落山久能寺」(天台宗のち真言宗)があり、 山の上には多くの僧坊が建てられていた。 久能山は、周囲を断崖絶壁に囲まれた天然自然の要害の地をつくる孤立した丘陵となっており、 南北朝時代の観応の擾乱(1350〜1352)や室町時代の今川氏の内紛 花蔵の乱(1536)などに際しては兵が立て籠もることがあり、 次第に寺院城郭としての一面をもつに至った。 久能山城 駿府に攻め入った武田信玄公は、永禄二年(1569)に要害の地久能山にあった寺院を移し、 本格的な山城を築いた。 この久能山城は、武田氏の北条氏・徳川氏への備えの拠点として重要な役割をになった。
久能山東照宮 元和二年(1616)四月、大御所徳川家康公が駿府城にて薨去。 家康公の遺言により、御尊骸を久能山に埋葬。 二代将軍秀忠公が山の上に本殿等諸建造物の造営を命じ、久能山城を廃して久能山東照宮を創建した。 このように久能山は、寺院・城郭・神社という宗教、戦略上の重要な拠点として、 歴史の表舞台に登場したのであった。 |
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