四谷 須賀神社(すが じんじゃ)      Suga Jinja Shrine       10.Oct.2014        天空仙人の神社仏閣めぐり

四谷 須賀神社 Official Page
四谷 須賀神社
「四谷 須賀神社」

四谷 須賀神社  三十六歌仙図
「四谷 須賀神社 三十六歌仙図」

四谷 須賀神社 参道 石段 写真 四谷 須賀神社 鳥居 写真
「参道 石段」「鳥居」
IshidanTorii
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四谷 須賀神社 拝殿 写真 四谷 須賀神社  写真
「拝殿」
Haiden
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四谷 須賀神社 扁額 須賀大神 稲荷大神 写真 四谷 須賀神社 賽銭箱 写真
「扁額 須賀大神 稲荷大神」「賽銭箱」
HengakuSaisenbako
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四谷 須賀神社 三十六歌仙図 写真 四谷 須賀神社 三十六歌仙図 写真
「三十六歌仙図」「三十六歌仙」
SanjurokkasenzuSanjurokkasen
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四谷 須賀神社 四神 青竜 写真 四谷 須賀神社 四神 玄武 写真
「四神 青竜」「四神 玄武 」
SeiryuGenbu
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四谷 須賀神社 四神 白虎 写真 四谷 須賀神社 四神 朱雀 写真
「四神 白虎」「四神 朱雀」
ByakkoSuzaku
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四谷 須賀神社 鏝絵 写真 四谷 須賀神社 鏝絵 写真
「鏝絵」「鏝絵」
KoteeKotee
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四谷 須賀神社 神紋 写真 四谷 須賀神社 神紋 写真
「神紋」「神紋」
ShinmonShinmon
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四谷 須賀神社(すが じんじゃ)

Suga Jinja Shrine

東京都新宿区須賀町5

5.Suga-machi,Shinjuku-ku,Tokyo


由緒

須賀神社はもと稲荷神社であった。稲荷社は往古より今の赤坂一ツ木村の鎮守で清水谷にあったのを、 後、寛永11年に江戸城外掘普請のため当地に移されたものである。

須佐之男命の鎮座の儀は、寛永14年島原の乱に日本橋、大伝馬町の大名主馬込勘由なる者幕府の命により兵站伝馬の用を勤め、 その功績により、現在の四谷中心部商地一円の支配権を拝領した機に、 寛永20年、神田神社内に祀ってあった日本橋大伝馬町の守護神を地元氏の総発意により、 四谷の氏神様として勧請し、翌寛永21年6月18日に稲荷神社に合祀し、以後御両社として祀るようになった。

通称四谷の天王様として明治維新まで親しまれて来た。

明治元年に須賀神社と改称され、明治5年に郷社に昇格、戦後は制度改正により旧社格は撤廃された。 戦災前の御社殿は文化11年8月に起工し、15年の歳月をかけ、文政11年12月に竣工、 社殿は権現造りの比類なき立派な建物であったが、昭和20年5月24日の東京大空襲の折、 御本殿並びに御内陣と摂社天白稲荷社を残し、外一切の建物が焼失した。 然し戦後氏子崇敬者の赤誠により今日の復興を見るに至った。

境内 案内板より


四谷の産土神で、祭神は建速須佐之男命・宇迦能御魂大神の二柱です。 かつては牛頭天王社と稲荷社の二つの神社であったもので江戸時代は稲荷天王合社と呼ばれ、明治にはいり須賀神社と改められました。 稲荷天王合社のうり稲荷社の由来については、次の二説が伝えられています。 一つは、かつては麹町十一丁目清水谷にあり、一ツ木村の鎮守であったものが、同村にあった別当宝蔵院が、 寛永11年(1634)に現在の須賀神社の場所に移ったのを機に、稲荷も移転してきたというものです。 もう一つは、稲荷社は、現在の勝興寺境内にあった椎の大木の根元に祀られており、 宝蔵院が清水谷にある頃から稲荷社まで注連飾りの奉仕に来ていたため、寛永11年に勝興寺が移転してきた時、 相談のうえ宝蔵院に遷座したという説です。 牛頭天王社のほうは、寛永18年(1641)に、神田神社境内の牛頭天王社を四谷のお仮屋横町付近に小祠を立て祀ったものだそうです。 ところがこの牛頭天王社に参詣人が多かったため、寛永21年(1644)寺社奉行に願い出て、 同年6月18日に宝蔵院境内の稲荷社と合祀し、現在の稲荷天王合社となったものです。 以来、稲荷は鮫河橋・権田原の、天王は四谷の鎮守として崇敬され、現在は四谷地区18町会が氏子町となっています。

境内 案内板より


須賀神社の三十六歌仙絵

三十六歌仙は、平安時代中期の公卿藤原公任(966〜1041)が、過去および同時代の優れた歌人三十六人を選定したもので、 万葉歌人から柿本人麿・小野小町ら33名が選ばれている。

須賀神社の三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55cm、横37cmの絹地に彩色したものを、 額装の上社殿内に掲げている。

当時画家として高名だった四谷大番町(大京町)の旗本大岡雲峰(1764〜1848)の絵と、 和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(1797〜1854)の書により、天保7年(1836)に完成・奉納されたものである。 四谷の総鎮守として信仰を集めた須賀神社の隆盛を物語る文化財の一つである。

新宿区教育委員会 案内板より


鏝絵

明治維新以降西洋文化が日本に流入し、多くの西洋建築が造られるようになった。 この西洋建築を実際に施工したのは、日本の大工や左官たちであった。 左官職人は、壁を塗ることを本業としていたが、その技術は当時世界一とまで賞されていた。 彼らの技術面の優秀さを端的に示しているのが漆喰で造られた「鏝絵」です。 この「鏝絵」は大島神社土戸の一部で、後に四谷の須賀神社に奉納されたものです。 作者の四谷の左官「吉田亀五郎」は、名工とうたわれた伊豆の長八の弟子にあたります。

拝殿内 案内板より


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