湖東三山 金剛輪寺(こんごうりんじ)      Kongorinji Temple       25.Nov.2015        天空仙人の神社仏閣めぐり

金剛輪寺 Official Page
湖東三山 金剛輪寺 本堂(国宝)
「金剛輪寺 本堂(国宝)」

湖東三山 金剛輪寺  千躰地蔵
「金剛輪寺 千躰地蔵」

湖東三山 金剛輪寺 名勝 明壽院庭園
「金剛輪寺 名勝 明壽院庭園」

湖東三山 金剛輪寺 名勝 明壽院庭園
「金剛輪寺 名勝 明壽院庭園」

湖東三山 金剛輪寺 黒門 写真 湖東三山 金剛輪寺  写真
「黒門」
Kuromon
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湖東三山 金剛輪寺 赤門 写真 湖東三山 金剛輪寺 白門 写真
「赤門」「白門」
AkamonSiromon
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湖東三山 金剛輪寺 千躰地蔵 写真 湖東三山 金剛輪寺 千躰地蔵 写真
「千躰地蔵」「千躰地蔵」
Sentai-JizoSentai-Jizo
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湖東三山 金剛輪寺 千躰地蔵 写真 湖東三山 金剛輪寺 千躰地蔵 写真
「千躰地蔵」「千躰地蔵」
Sentai-JizoSentai-Jizo
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湖東三山 金剛輪寺 二天門 写真 湖東三山 金剛輪寺  写真
「二天門」
Nitenmon
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湖東三山 金剛輪寺 本堂(国宝) 写真 湖東三山 金剛輪寺 本堂(国宝) 写真
「本堂(国宝)」「本堂(国宝)」
HondoHondo
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湖東三山 金剛輪寺  写真 湖東三山 金剛輪寺  写真
「三重塔」「三重塔」
Sanju no toSanju no to
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湖東三山 金剛輪寺 持国天 写真 湖東三山 金剛輪寺 増長天 写真
「持国天」「増長天」
JikokutenZochoten
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湖東三山 金剛輪寺 茶室 水雲閣 写真 湖東三山 金剛輪寺 護摩堂 写真
「茶室 水雲閣」「護摩堂」
SuiunkakuGomado
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湖東三山 金剛輪寺 地蔵堂 写真 湖東三山 金剛輪寺 地蔵堂 写真
「地蔵堂」「地蔵堂」
JizodoJizodo
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湖東三山 金剛輪寺 地蔵菩薩 写真 湖東三山 金剛輪寺 不動堂 写真
「地蔵菩薩」「不動堂」
JIzobosatsuFudodo
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明壽院 無量寿殿

湖東三山 金剛輪寺  写真 湖東三山 金剛輪寺  写真
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湖東三山 金剛輪寺  写真 湖東三山 金剛輪寺  写真
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湖東三山 金剛輪寺  写真 湖東三山 金剛輪寺  写真
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名勝 明壽院庭園

湖東三山 金剛輪寺  写真 湖東三山 金剛輪寺  写真
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紅葉

湖東三山 金剛輪寺 紅葉 写真 湖東三山 金剛輪寺 紅葉 写真
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湖東三山 金剛輪寺 紅葉 写真 湖東三山 金剛輪寺 紅葉 写真
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湖東三山 金剛輪寺 紅葉 写真 湖東三山 金剛輪寺 紅葉 写真
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湖東三山 金剛輪寺 紅葉 写真 湖東三山 金剛輪寺 紅葉 写真
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湖東三山 金剛輪寺 紅葉 写真 湖東三山 金剛輪寺 紅葉 写真
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湖東三山 金剛輪寺(こんごうりんじ)

Kongorinji Temple

滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874

874,Matsuoji,Aiso-cho,Echi-gun,Siga


湖東三山まん中のお寺

天台宗 金剛輪寺

金剛輪寺

略縁起

松峰山金剛輪寺は聖武天皇の勅願寺として、行基菩薩が天平十三年(741)に開山された歴史のあるお寺です。 本尊聖観世音菩薩は行基菩薩の御作といわれております。 以来、天下泰平の祈祷寺として栄え、学問僧が多く集まり、嘉祥年間(850)には延暦寺の慈覚大師が来山。 密教修法と西方阿弦陀仏の信仰を初めてご教化になリ、天台の大寺となりました。 寿永二年(1183)には源義経が義仲を追討せんとして近江に来たり、当山に参籠十数日、武運必勝を祈願し、太刀を寄進しました。 寛元四年(1246)には、昭和五十三年秋、昭和の復元大修理を終えた三重塔が創建されました。 歴史にのこる文永弘安の役には鎌倉の北条時宗が佐々木頼綱に命じて近江国中の祈祷寺社に元軍降伏の祈願を修せしめました。 当山長老覚賢は、衆僧をはげまし大祈祷を厳修しましたところ、元軍は大敗し、時宗は凱歌を挙げ、日本国中はじめて安堵いたしました。 近江守護役頼綱は弘安十一年(1288)、当山本堂大悲閣以下を再興して、観音さまの霊験に感謝しました。 現在の本堂大悲閣がそれで、実に七百年をこえる歴史をもつ大堂で、鎌倉期和様建造物の代表的なものとして国宝に指定されています。 昭和三十九年東京オリンピックには日本建造物の代表選手として、文部省が十分の一の模型を作成、東京国立博物館に展示され、 世界の人々の注目を集めました。創建時、当山は東西南北四谷に分かれ、それぞれの坊舎が甍をならべ、 その数は百余とされ盛なることでした。

現在でも参道沿いに坊跡をみることができます。数多くの仏さまが諸堂に安置されていますが、「建暦」「貞応」 等鎌倉初期の銘を有するものも多く、十四躯が国の重要文化財に指定されております。 応仁の乱後は佐々木六角氏や京極氏が時々宿陣し、戦時には兵糧米、軍資金を強請される事度重なり、 当山においても、弓矢を持ち、自衛しました。山中に城山という所があるのは、当山衆徒砦跡であリます。 天正元年(1573)、百済寺が鯰江城を後援したことで、信長は同寺を焼き払いました。 この時、金剛輸寺も同罪ということで火をはなたれましたが、当山僧侶の機知により、本堂、三重塔、二天門等はその難を免れました。

徳川家光公が当山に諸課役免除地三十石を寄進されたのが復興の基となり、井伊直孝侯、黒衣の宰相天海僧正の助力も大でありました。 寛永九年(1632)正親町天皇の御孫、良恕親王が当山に静仙院を建立され、仏道を修業。明和の頃(1764)は明寿院他十二坊、 末寺二ヶ寺有り、僧侶五十人余が、仏法を学ぴ農業を営んでいましたが、 明治維新により、境内山林全て上地の悲運にあい、山内僧侶すべて退山帰俗し、本坊明寿院一坊となりました。 しかし、仏徳の尊厳変わることなく、全国十方、観音信者の御後援によリ、 境内整備、諸堂の復興に努め明治、昭和の本堂大修理をはじめとし、江戸末期に荒廃した三重塔復元大修理も昭和五十三年に完工。 湖東三山の雄として、吉より今に国家安泰、万民豊楽を祈る道場となっております。 国宝本堂三重塔は緑樹繁る山腹に位置し、参道には千余のお地蔵さまが厳座され、 春は山桜、つつじ、石楠花、夏は紫陽花が美しく、秋は紅葉が名園池水に映えて、詣でる人自ずから心の塵も払われ、 現世安穏、未来の幸福が約束され、慈悲の光は全山に満ちみちております。 お経に「観世音浄聖は衆生の苦悩死厄に於て能く其の人の依り処となること、念々疑いを生ずるな」と説かれています。 私達は素直にこの文を信じ、苦しみや悩みがあるとき、ただひたすら観音さまに帰命すべきです。 「仏法の大海は信を以て入り智を以て渡る」と説かれています。御信心をお勧めします。

参拝者各位    合掌


金剛輪寺 文化財

仏像

秘仏本尊聖観世音菩薩    天平期

奈良時代の高僧、行基菩薩が一刀三礼、拝みながら彫刀を進められると、やがて木肌から一筋の血が流れ落ちた。 この時点で観音さまに魂が宿ったとして、菩薩は直ちにその彫刀を折り、粗彫リのまま本尊として安置されました。 後の世に「生身(なまみ)の観音さま」と信心されておリます。

阿弥陀如来坐像  二躯鎌倉初期重要文化財

不動明王立像鎌倉初期重要文化財

毘沙門天立像鎌倉初期重要文化財

四天王像  四躯鎌倉初期重要文化財

慈恵大師像 二躯鎌倉初期重要文化財

大黒天半跏像弘仁期重要文化財

十一面観世音立像平安中期重要文化財

銅磬鎌倉時代重要文化財

建造物

本堂大悲閣弘安十一年(1288)国宝

三重塔待龍塔寛元四年(一二四六)建立重要文化財昭和五十三年秋復元修理工事完工

二天門室町時代重要文化財

大行社本殿室町時代重要文化財

本坊明寿院昭和五十三年秋再建

水雲閣江戸時代末茶室


金剛輪寺につたわる

七つのお話しの

ひとつを紹介します

掃除をしていた一人の小僧が、とつぜん大きな声を立てました。

「みんな来るんじゃ、豆じゃ豆じゃ・・・」

庫裡の床下に、大粒のふっくらとしたそら豆が箱に入れて置いてあリます。

「一升はある、うまそうじゃのオ」

集まった小僧たちはそら豆を前によだれを流さんばかりにして相談し合いました。 そしてその結果、和尚さんの留守を幸いに食ってしまおうということになりました。 秋が来て豆を蒔こうと思った和尚さんは床下の箱を見ると一粒もありません。 「正直に白状すればゆるしてやります」和尚さんの前でうなだれたままの小僧たちでしたが、最後には白状しました。 「一粒の豆を食ってしまえば一粒でおわる。だが、大地に蒔けば何十粒、何百粒にもふえる。 そら豆にも命がある。お前たちはその命を取ってしまったのじや」

ゆるしてもらったものの、このままでは和尚さんに申し訳がない。小僧たちは暗い床下に入り、 一粒でも落ちていないかと探しました。

「あった、あったぞツ」床下の隅の方に。たった一粒ありました。 小僧たちはその一粒に祈りを込めて畑に蒔きました。それからというもの、「一斗ほど穫れる大きな豆の木に育ちますよう…」 観音さまに一心に祈願しました。

やがて芽を出した豆が、日毎、夜毎に大きくなり、一抱えもある大木となり、一斗以上もの豆が穫れました。

「お前たちが己を空しゅうして育てたのが観音さまのお心にも通じ、ご利益となって現れたのじゃ。 これすなわち、仏の教えにいう自利利他というものじや…」

この豆の木で太鼓の胴を作り後世に遺しました。これが金剛輪寺に伝わる豆の木の太鼓です。

「近江むかし話」より

※自利利他…自ら仏道を成じてさとりを得るとともに、他に仏法の利益を得させること。

金剛輪寺 パンフレットより


金剛輪寺略縁起

金剛輪寺は、奈良時代の中頃、天平13年(741)に聖武天皇の勅願で行基菩薩によって開山されました。 言い伝えによりますと行基菩薩が一刀三礼で観音さまを彫り進められたところ、木肌から一筋の血が流れ落ちたため、 その時点で魂が宿ったとして、粗彫りのまま本尊としてお祀りされました。 後の世に「生身(なまみ)の観音」と呼ばれるようになり、全国の観音信徒より篤い信仰を集めています。 平安時代の初めには、比叡山より慈覚大師が来山、天台密教の道場とされて以来、延暦寺の末寺、天台宗の大寺院となりました。 金剛輪寺本堂(国宝)元寇の役(蒙古襲来)の戦勝記念として、時の近江守護職・佐々木頼綱によって建立された本堂は、 鎌倉時代の代表的な和様建造物として国宝に指定されています。 堂内には御本尊をはじめ、阿弥陀如来坐像、十一面観音立像など平安から鎌倉時代の仏像が安置され、 その多くが国の重要文化財に指定されています。 また、三重塔(鎌倉時代)および二天門(室町時代)も国指定重要文化財で、 桃山時代から江戸時代の中期にかけて造られた本坊明壽院の庭園は近江路随一ともいわれ、国の名勝に指定されています。


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