小布施 岩松院(がんしょういん)
     Ganshoin Temple 
          27.Oct.2015
           天空仙人の神社仏閣めぐり
小布施 岩松院 Official Page
小布施 岩松院  写真 小布施 岩松院  写真
「小布施 岩松院」
Ganshoin Temple
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小布施 岩松院 山号額 写真 小布施 岩松院  写真
「山号額」
Sangogaku
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小布施 岩松院 仁王門 写真 小布施 岩松院 仁王門 写真
「仁王門」「仁王門」
NioumonNioumon
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小布施 岩松院 金剛力士像 写真 小布施 岩松院 金剛力士像 写真
「金剛力士像」「金剛力士像」
KongorikishizoKongorikishizo
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小布施 岩松院 福島正則公霊廟 写真 小布施 岩松院 十一面観世音菩薩像 写真
「福島正則公霊廟」「十一面観音菩薩像」
Fukushima Masanori ko ReibyoJuichimen-Kanzeonbosatsuzo
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小布施 岩松院 一茶 句碑 写真 小布施 岩松院 六地蔵 写真
「一茶 句碑」「六地蔵」
KuhiRokujizo
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小布施 岩松院 庭園 写真 小布施 岩松院 庭園 写真
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小布施 岩松院(がんしょういん)

Ganshoin Temple

長野県上高井郡小布施町雁田

Karida,Obuse-machi,Kamitakai-gun,Nagano


信州・小布施 岩松院

北斎・正則・一茶 ゆかりの古寺

「岩松院の沿革]

開創は文明4年(1472)雁田城主の荻野備後守常倫公の開基で、開山は不琢玄珪禅師。 本堂は136.55坪。その他庫裡、鐘楼、坐禅堂、仁王門がある。 本尊仏は宝冠をいただく釈迦牟尼仏で、江戸時代初期(慶長かその直後)の作。

【本堂の大間天井絵「八方睨み鳳風図」】

葛飾北斎(1760〜1849)最晩年の作品。 間口6.3m、奥行5.5mの大画面を12分割し、床に並べて彩絵した後、天井に取り付けられた。 鳳凰は朱・鉛丹・石黄・岩緑青・花紺青・べろ藍・藍などの顔料を膠水で溶いた絵具で彩色され、 周囲は胡粉、下地に白土を塗り重ね金箔の砂子が蒔かれている。 画面には絵皿の跡など制作時の痕跡が残っている。

【高井鴻山書「無」】

鴻山(1806〜1883)は小布施村の豪商高井熊太郎の四男。 京都九條家ほか飯山藩の御用達を務める代々の素封家。 15歳より京都及ぴ江戸へ遊学、当代一流の師について儒学、絵、書などを学んだ北信濃きっての文化人である。

【福島正則の霊廟】

元亀天正年間の戦国武将福島正則公(1561〜1624)は豊臣秀吉の重臣として、 賎ヶ岳の戦いでは「七本槍の第一」と称せられ、また関ヶ原の合戦でも勇名をはせ、 広島城(49万8千石)の大大名になったが、幕府の謀略により元和5年(1619)秋この信越地方(4万5千石)に国替えさせられた。 在信5年。悲運をなげきつつ寛永元年(1624)7月13日、64歳で薨じた。 霊廟には遺骨を埋葬し、高さ約2.5mの大五輪塔を建立し、「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」の戒名を刻む。 遺品には、文書、観音像、大槍、馬具、日用の什物などがある。

【一茶と蛙合戦の池】

寺の桜の花見時になると、裏庭の小さな池に、大人の手のひら大のひき蛙がいづこともなく集まってくる。 めすが産卵するのをおすが手伝うのだが、めすが少ないために、うばい合いとなって合戦となる。 一年の内の約5日間、昼夜の別なく、蛙が入れ代り立ち代り、くくみ声をあげての戦いは静かな山寺の春の風情でもある。

俳人・小林一茶(1763〜1827)は文化13年(1816)4月20日に当地を訪れ、 合戦を見て「やせ蛙まけるな一茶これにあり」と詠んだ。病弱な初児・千太郎への声援の句であるが、 その願いもむなしく千太郎は一ヶ月たらずで他界した。一茶54歳の時。

岩松院 しおりより

北斎晩年の傑作「八方睨みの鳳凰図」

本堂内の大間、21畳の大きさの極彩色の天井絵。江戸末期、嘉永元年(1848)北斎89歳の作品。 岩絵具は中国より輸入した辰砂・孔雀石・鶏冠石などの鉱石を用い、その価は150両。 金箔を4400枚使用し、色彩・光沢は少しも変化していません。


小布施町史跡

福島正則公霊廟

昭和四十八年二月二十日指定 第六号

福島正則は尾張国二ツ寺村(愛知県美和町)に生まれ、 加藤清正とともに豊臣秀吉子飼いの武将として活躍。 関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、安芸・備後二国で四九万八千余石を領する大大名となった。

元和五年(1619)、広島城の石垣修築が武家諸法度にふれたとして、 信州川中島の内二万石、越後魚沼郡二万五千石、計四万五千石に減封となった。 このときの城明け渡しは、後世に伝えられるほど見事であった。 高井野村(高山村堀之内)に屋敷を構えた正則は松川の治水事業などに取り組んだが、 寛永元年(1624)七月十三日、六十四歳でこの世を去った。 その際幕府検死役を待たずに遺体を火葬したとして領地は没収された。 正則は仏教を深く信仰し、岩松院を菩提寺と定めて海福寺の寺号をつけた。 墓は高さ二・五メートルの五輪塔。台石に「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」と刻まれている。

小布施町教育委員会

境内 案内板より


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